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Motorsports Archive Vol.14
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ニッサンR90CP

 前年型のニッサンR89Cをベースに、ニッサン・パフォーマンステクノロジー(NPTI)が作製したグループCカー。ニッサンの開発拠点追浜(おっぱま)で開発されたゆえに、マシン名末尾にoppamaの“P”がついている。

 R89Cの写真と比較すると大きく違うのはボディの形状。左右に開いたエアインテークが特徴的だ。エンジンも未だにニッサン過去最高傑作といわれるVRH35Zを搭載し、まさにル・マン優勝を目標としたマシンであった。

 そのル・マンでは長谷見昌弘/星野一義/鈴木利男のドライブするマシンが5位入賞。この時記録した最高速度は366km/h。これはル・マン名物のストレート、ユーノディエールにシケインが出来たあとの記録として未だに残っているものだ。

 全日本スポーツプロトタイプカー選手権(JSPC)では長谷見がドライバーズチャンピオンを獲得。そしてメイクスでも国産マシンとしては初のタイトルを記録することとなった。

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 見れば見るほどに美しいそのフォルム。一番気に入っていたのがこのミラーの処理だった。ミラーは必要最低限のもので、どうしてもつけなくてはいけないものだ。R89Cでは通常どおりステイで固定していたが、こんな処理の仕方があったかと関心したものだ。写真を見てわかるとおり、こういうところで写真を撮っていたもので、実際にコクピットからこのミラーを見たことがある。当たり前ではあるが、後ろが普通に見えたことに感動したものだった。

 R89Cから始まったニッサンのグループCカーの系譜。日本のモータースポーツだけではなく世界にも波及するのは、この翌年であった。

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階段?
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昔は何に使ってたのかねぇ?
Motorsports Archive Vol.13
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和田 孝夫

 1972年にツーリングカーでデビュー。その後全盛期には全日本F3000選手権、全日本ツーリングカー選手権(JTC)、全日本スポーツプロトタイプカー選手権(JSPC)、富士GCシリーズという国内トップ4カテゴリーすべてに参戦していた。

 もっとも印象に残っているのは富士GCシリーズでの活躍。このADVANカラーのマシンで幾度かの優勝を飾っている。またこのころにはこのマシンがテレビCMにも出ていたこともある。

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 富士シリーズ最終戦でも写真のように星野一義と激しいデットヒートを繰り広げた。

 一歩先んじる男。和田孝夫。富士GCシリーズの英雄のひとりだ。
古き良き建物
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横浜ドリームランドの横にそびえたつこの建物。1965年に完成したホテルエンパイアです。最上階はグルグルまわる展望レストランだったのだ。

今では横浜ドリームランドも閉園。このホテルエンパイアも横浜薬科大の図書館となったそうです。

まわりに大きな建物もなく、忽然と現れるこの建物。未だに存在感はありますね。
Motorsports Archive Vol.12
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ニッサンR390 GT1

 ニッサンがル・マン制覇をかかげ、トム・ウォーキンショウ・レーシング(TWR)と共に開発したニッサンR390 GT1。60年代日本グランプリで活躍したニッサンR380の名称を継いでいるところからもその本気度がうかがえたマシンであった。97、98年のル・マン24時間レースに参戦し、98年には星野一義/鈴木亜久里/影山正彦が総合3位を獲得。R390 GT1はこのマシンを含め4台が参戦したが、全車が完走し10位以内に入るという好成績を残した。

 この頃のル・マン24時間レースはレギュレーションの変更などにより、参加するカテゴリーを選別する必要があった。総合優勝を狙えるカテゴリーは“LMP1”か“GT1”である。当初は96年にTWRがポルシェと組み優勝を飾ったポルシェWSC95をベースに車両を開発し、LMP1クラスへ参加する計画であった。しかしLMP1クラスのようなオープンボディのマシンでの参戦を嫌った日産内部からの声があり、急遽GT1クラスへの参戦となった。そのためにマシン開発は屋根のあるTWR作製のジャガーXJR-14をベースにすることとなる。ポルシェWSC95も同じくXJR-14をベースとしたマシンではあったが、オープンボディとクローズドボディの違いからほぼ0からの開発となってしまった。
 紆余曲折を経て開発されたニッサンR390 GT1は97年ル・マン24時間予備予選ではトップタイムを獲得したが、レギュレーション違反を指摘されてしまう。97年は惨敗といえる結果となってしまったが、98年には前述のように好成績を挙げることに成功した。たった2年間の参戦ではあったが、印象に残るマシンであった。

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 今年の見ごろは終っちゃいましたね。桜が咲いているとカメラを持って出かけたくなりますよね?

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やはりmicroNikkorはいい……。

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ともにMicroNikkor 55mm F2.8 +Nikon FM2
鶴岡八幡宮
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鎌倉シリーズ。鶴岡八幡宮。

鎌倉では一番デカいお寺ですね。舞殿ではたびたびイベントをやってるので要チェック。

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階段下からの眺めは荘厳だよ!
Motorsports Archive Vol.11
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小河等

 80年代前半から国内トップフォーミュラに参戦していたものの、88年までは結果を出すことはできなかった。しかし写真にある89年、開幕戦で星野一義に次いで2位に入るとその後も安定した走りを披露。最終戦までもつれたタイトル争いを制し、初めての全日本F3000チャンピオンとなった。

 この89年全日本F3000選手権で見せたリタイアが少ない、安定した走りは同時期に開催されていた全日本スポーツプロトタイプカー選手権の方が生かされていた。トヨタワークスドライバーとしてたびたび表彰台に上がっていた。
 その流れからか、名称やマシンの規定は変わってはいたが、92年にはスポーツカー世界選手権(SWC)にトヨタTS010を駆り参戦。開幕戦では日本人としてはじめての優勝を飾る。これは長きに渡って続いたスポーツカーの歴史の中でも始めてのことだった。

 この年のSWCは参加台数も少なく、第2戦は中止となった。このことを利用して一時帰国。全日本F3000選手権にスポット参戦した彼は、4位争い中のアクシデントによりこの世を去ってしまった。
 そしてSWCも上記のような状況にあり、この年限りで終了してしまう。

 89年のF3000チャンピオンはスポーツカーでその力を存分に発揮した。日本人初優勝を決めたその年、そのスポーツカーも彼も、この世から去っていった。

 
段葛
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鎌倉シリーズ 段葛

 今年の見ごろはもう終っちゃいましたかね? 鶴岡八幡宮まで続く段葛の桜です。夜になると左右に並ぶ提灯に火(というか電球)が灯り、昼間とはまた違った景色になります。

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 桜の時期が終っても、夏は青々とした小路が続きます。ここはいつ行ってもいいですよ。
Motorsports Archive Vol.10
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ニッサンR89C

 前年のR88Cはマーチが作製してたが、このR89Cからはローラカーズ製へと変更となった。車体自体も低く、リアタイヤにはカバーがつくなどル・マン24時間レースを意識したデザインであった。この年は全日本スポーツプロトタイプカー選手権(JSPC)だけではなく、世界スポーツプロトタイプカー選手権(WSPC)にもフル参戦した。このマシンでは結果は出なかったものの、速さ自体は見せることはできた。そしてこのマシンをベースに、日産は結果を出すことになる。

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 一番気になるリアまわりの処理。このように開いてタイヤは交換するようになっていた。
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