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寿福寺
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鎌倉シリーズその2。寿福寺。石畳がいい感じの小さなお寺。休日になると写真撮影やスケッチ組が多く、平日がおすすめ。本当にいい雰囲気ですよ。
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Motorsports Archive Vol.8
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カール・ヴェンドリンガー

 89年ドイツF3選手権に参戦。ミハエル・シューマッハー、ハインツ-ハロルド・フレンツェンというライバルたちをおさえチャンピオンを獲得した。
 当時世界スポーツプロトタイプカー選手権(WSPC)に参戦していたメルセデスワークスチーム(ザウバーメルセデス)は若手ドライバー育成を目的にしたプロジェクトを開始しようとしていた。翌90年には正式に“メルセデスジュニアチーム”としてヴェンドリンガーをはじめシューマッハー、フレンツェンの3人を持ち回りでWSPCに参戦させることになる。ここで3人はF1でも活躍したヨッヘン・マスの指導のもと実力をつけていくことになった。
 ヴェンドリンガーは91年にレイトンハウスよりF1デビューを果たす。93年にはこの年からF1参戦を果たすことになった古巣でもあるザウバー・メルセデスに加入。しかし94年モナコGPのプラクティス中にクラッシュを喫してしまう。一時は命も危ぶまれる状態であったが奇跡的に意識を取り戻し、翌年にはF1にカムバックする。しかし以前のような速さを見せることはなかった。

 写真は90年WSPC SUZUKAでの1枚。ニューマシンであるメルセデスベンツC11は予選でクラッシュしてしまし、レースではこのザウバー・メルセデスC9で走ることになった。このレースではカーNo.1をかるジャン-ルイ・シュレッサー/マウロ・バルディが優勝し、カーNo.2のヨッヘン・マス/カール・ヴェンドリンガー組は2位であった。
 
 このジュニアチームの3人は全員がF1にたどり着いた。ヴェンドリンガー、フレンツェンは共にザウバー・メルセデスで活躍したが、シューマッハーだけはザウバーどころかメルセデスワークス=マクラーレンにも乗る事はなかった。
 この3人がメルセデスワークスで、F1で活躍してくれることを望んでいたメルセデスファンは少なくはないのではないだろうか。
六地蔵
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鎌倉の六地蔵。商店街の中にたたずんでいます。

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こんな感じ~。
Motorsports Archive Vol.7
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トヨタ88C-V

 前年までトムスが作製したマシンで全日本スポーツプロトタイプカー選手権に参戦していたトヨタが、満を持して投入したワークスマシン。しかしシェイクダウンテスト時から問題が多々発生し、実際にデビューしたのは88年7月のことだった。そのレースではスピード、燃費ともにライバルのポルシェ、ニッサンを圧倒していたものの、トラブルによりリタイアしてしまう。最終戦WEC in JAPANでやっと2台体制になるものの、優勝することはなかった。
 88C-Vの最大の特徴がこのテールランプ。前方にいるマシン(マーチ88S・ニッサン)と比べると明らかに洗練されている。

 写真はそのWEC in JAPANで登場した2台目、タカキューカラー。トヨタのCカーといえばミノルタカラーが思い出されるが、なぜかこっちの方が好きだ。このマシンはステファン・ヨハンソン/パオロ・バリラ/小河等がドライブしたが、21位完走という結果だった。ちなみに22位最下位はミノルタカラーの88C-V。早かったけど強くはなかった。しかし記憶には強烈に残っている。
富士山を眺めるが……。
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 国道246号線沿いにある「道の駅ふじおやま」から富士山を眺めます。なかなかの眺め! と思いきや、送電線がちょうど富士山にかかってしまいます……。

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 少しズームしてみるものの……上には送電線、下には電柱。どうしても富士山の全景は撮れないというワケですね。
>>続きを読む
Motorsports Archive Vol.6
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星野一義(1989年 全日本F3000開幕戦・ローラT88-50/無限)

 全日本F2000選手権(75、77年)、全日本F2選手権(78年)、全日本F3000選手権(79、90、93年)。国内トップフォーミュラで数々のタイトルを獲得した“日本一早い男”。星野を倒さなければF1には行けない。しかしその星野は1947年生まれ。中嶋悟(53年)、鈴木亜久里(60年)、片山右京(63年)といったF1レギュラーシートを獲得した自分より若いドライバーの壁となっていた。自身は76、77年に富士スピードウェイで行われたF1世界選手権にスポット参戦。76年には大雨の中一時3位を走って注目を浴びたが、やはり年齢がネックとなっていた。
 1996年フォーミュラ・ニッポンを最後にフォーミュラから引退。引退レースとなった最終戦。望みは薄かったがタイトルの可能性を残していた。雨の中でのレースでトップグループを走行中にマシントラブルでピットイン、そのままリタイアとなった。ピットに入ったあとマシンから降りた直後ヘルメットを脱ぎそのままたたきつけたシーンが印象的だった。

 走るために生まれてきた日本一のドライバー。あと10年早く生まれていれば。それでも日本を代表するドライバーに変わりはない。
おめでとう100万人
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 2000年に“湘南ベルマーレ”となって、今日の試合で100万人来場となったそうです。今日はピッチ上で100の一文字を作成してました。これは来年のオフィシャルカレンダーに掲載される予定だそうですよ~。私は出遅れたんで参加できませんでした(苦笑)。
Motorsports Archive Vol.5
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クラウス・ルドヴィク(Klaus Ludwig)/プライス・コッブ(Price Cobb)
オムロンポルシェ962C 1988年 富士スピードウェイ

 ポルシェ962C。1982年に誕生し最強のマシンといわれたポルシェ956の後を継いで85年に誕生した。ポルシェワークスチームこのマシンで86、87年にル・マン24時間レースを連覇。88年には世界スポーツプロトタイプカー選手権には参戦しなかったものの、ル・マンには出場。しかし力をつけてきたジャガーの後塵を拝し優勝はならなかった。
 ポルシェワークスとしての活動はル・マンで終りと誰もが思っていた88年10月、富士スピードウェイで開催された世界スポーツプロトタイプカー選手権に突如出場。写真のオムロンカラーに彩られたマシンをクラウス・ルドヴィクとプライス・コッブが駆り富士を駆け抜けた。結果はル・マンと同じくジャガーに次ぐ2位であった。
 962Cはプライベーターへの販売もありこの後もサーキットを走る姿は見ることができたが、ワークスの勇姿はこれが最後となった。秋の香り漂う富士で、ワークスポルシェ962C最後の意地を確かに見た。
黄砂
 黄砂が厳しい地域の方、いかがお過ごしでしょうか?

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 こちらではあまり影響のない黄砂。大阪で黄砂の来襲に遭遇しました。写真では伝わりにくいかもしれないけれど、自分には結構衝撃的な夕暮れでした。大阪の夕暮れ。
Motorsports Archive Vol.4
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エジェ・エルグ(Eje Elgh) MIZUNO SPORTSローラ(1989年 富士スピードウェイ)

  ローラT88-40・マツダ。富士スピードウェイで開催されていた、富士グランチャンピオンレース後期。F2、後にF3000のシャシーにカウルをかぶせた独特のシングルシーター。ドライバーに焦点をあてるため、ワークスエンジンの使用は禁止されていた。その代わりにF3000にはないエンジンバリエーションが魅力的でもあった。
 1988年には始めて富士スピードウェイ以外でも開催され、翌年には始めて全日本選手権がかけられることとなった。しかし同時期に開催されていた全日本F3000、全日本スポーツプロトタイプ選手権、全日本ツーリングカー選手権の人気に押され観客動員が低迷。89年が最初で最後の全日本選手権となり、この年を持って歴史に幕を閉じた。

 写真はその最終戦、エジェ・エルグ(EJe Elgh)が駆るマシン。主流であった無限エンジンではなくマツダのロータリーエンジン13Bを搭載している。甲高い音はもちろん、無限よりもバックファイヤーが出る率が高い。後ろを走るのは高橋国光である。

 置きピン。よくみると縁石にピントが来てます。このヘアピンで絶対バックファイヤーを撮るぞ! と心に決めて撮影していたようで、同じところでたくさん撮ってました(笑)。
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