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MotorsportsArchive Vol.38
うーん、やりたいネタはあるんだが写真を選別するヒマがない……。

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富士スピードウェイ 30度バンク

富士スピードウェイ1コーナーの先には、壁のようにアスファルトが打ち込まれていた。速度を落とさないでコーナーをクリアできるよう、30度のカントをつけたコーナーだった。古いレースの写真を見ると、実際にここをマシンが走っている。初めて行ったときから写真のような状態だったのでイメージすることしかできないが、さぞや迫力があったのだろう。

富士スピードウェイがリニューアルオープンした際、この部分はメモリアルパークとなっていた。初めて行った新富士スピードウェイ。ここだけが旧富士スピードウェイの名残を感じる場所だった。
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Motorsports Archive Vol.37
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なんかおっかねぇぇぇぇぇ!

富士スピードウェイで開催されていたF100です。無数のカートが1コーナーに向かってくるそのさまは、アメンボのよう(笑)。

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やっぱりいたるところでクラーーーッシュ!

Motorsports Archive Vol.36
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岡田秀樹

1988年、このフロムエーポルシェで全日本スポーツプロトタイプカー選手権(JSPC)のチャンピオンを獲得した。この時は日本人最強のポルシェ使いとして名を馳せた。

翌年のJSPCにはレイトンハウスポルシェで出場。と同時に全日本F3000選手権、GCにもレイトンハウスカラーのマシンを駆って出場した。

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Motorsports Archive Vol.35
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片山右京

 言わずと知れた日本人F1ドライバー。写真は全日本F3000選手権を制した91年のもの。

 90年に名門ヒーローズレーシングに移籍し速さを見せ始めた右京が開花したのが91年だった。ちなみに星野一義も同じカラーリングではあるが、チームは違う。
 この年は全10戦(1戦は悪天候のため中止)で延べ6人のウイナーが生まれた激戦の年。右京は2勝に加え2位も3回獲得。7戦で入賞する安定性を披露し、チャンピオンを獲得した。
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Motorsports Archive Vol.34
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親子

ではなく、後ろの小さいのはエンジンをかけるときに必要です。こういう細かいところまで凝ってるのっていいですよねぇ。
Motorsports Archive Vol.33
 ここまでサーッと見ると分かると思いますが、Cカー好きだったのでF1っつーのは見たことありません。唯一見た走ってるF1はコレ。

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 レイトンマーチ881・ジャッド。場所は富士スピードウェイ、ドライバーは関谷正徳!

 F1にレイトンハウスカラーが出現したのは87年。このマシンは88年にF1を戦った。後に名デザイナーとなる空力の天才、エイドリアン・ニューイ(Adrian Newey)のデザインしたこのマシン。ターボ全盛期の中ジャッドのNAエンジンを搭載しながら最高位は2位。鈴鹿の日本GPではNAエンジン搭載車では唯一のラップリーダーも記録した。

 これは全日本F3000選手権のイベントの一環として行われたもの。約2周の走行だったが、富士のストレートを猛スピードで駆け抜けられた瞬間、F1も悪くないな、と思った(笑)。
 レイトンハウスのドライバーといえば、当時は関谷。その関谷のドライブっていうのも、Cカー好きにはたまらなかったね。
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Motorsports Archive Vol.32
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日石トラストポルシェ。以前にも紹介したポルシェ962C GTiをいち早く日本に持ち込んだのは、トラストレーシングだった。

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そしてドライバーは左のスティーブン・アンドスカー(Steven Audsker)と中央のジョージ・フーシェ(George Fouche)のふたり。右のドライバーは誰だか分かるかな?
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Motorsports Archive Vol.31
 1955年。ル・マン24時間レースにおいてシルバーに彩られたメルセデスがクラッシュをする。メインストレートで起こったこのクラッシュにより、86人が死亡し約200人が重軽傷を負うというモータースポーツの歴史上最悪の事故であった。この事故後もレースは続行されるが、メルセデスは全マシンをピットに呼び戻しそのままリタイアする。それから何年もの間、メルセデスはモータースポーツに関わることはなかった。

 メルセデスが再びモータースポーツ界に戻ってきたのはその事故から30年が経った85年だった。のちにF1にも参戦するチームザウバーの作製するグループCマシンにエンジンを供給し、世界スポーツプロトタイプカー選手権(WSPC)に参戦したのだ。そして88年。メルセデスが正式にモータースポーツ界に戻ることを宣言した。チーム名は「チームザウバー・メルセデス」。

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 このザウバー・メルセデスC9は独特のエキゾーストノートを響かせ、サーキットを疾走した。しかしこの年のル・マンでは予選中にアクシデントが起こり、決勝レースに出走することはなかった。この88年はジャガーとの激しい戦いの末、WSPCではシリーズ2位を獲得している。
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Motorsports Archive Vol.30
富士GCシリーズの終焉 ~最終回

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最後のチェッカーフラッグが振られた。最初にゴールしたのは関谷正徳だった。
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Motorsports Archive Vol.29
富士GCシリーズの終焉~その2

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首位を走るのは関谷正徳だ。

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これを追うのは和田孝夫と星野一義。

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